【カッパピア】跡地は現在、穏やかな憩いの公園になっている

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「カッパピア」は群馬県高崎観音山に
昭和36年7月~平成15年11月30日まで営業した遊園地。
倒産後20年間廃墟をさらしたことでも有名である。

日本経済が激しく成長した高度成長期の真っただ中、
子供たちの夏休みに合わせて「カッパピア」が開業した。

「カッパピア」は高崎観音山の観光促進を目的に
上信(じょうしん)電鉄と高崎市観光協会が
第三セクターを設立して誕生した。

上信電鉄の子会社、
高崎フェアリーランド(株)が運営していた
昭和的発想の遊園地である。

開業当初は 運営会社の社名と同じ「高崎フェアリーランド」
という名称だった。

しかし、昭和44年夏に増設オープンした
“流れるプール”の名称「カッパピア」
(カッパ・ユートピアからの造語)
がいつしか施設全体の呼び名として定着し、
正式名になったというエピソードがある。

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「カッパピア」は北関東を代表する総合レジャーランドへ

昭和55年には宙返りコースター、
昭和58年にスケートリンクと規模を拡充しながら
25基の遊具施設を取りそろえた、
北関東を代表する総合レジャーランドへと発展した。

最盛期は昭和44年である。

この年、約62万人の最多入場者数を記録している。

これは“流れるプール”
「カッパピア」が増設オープンした年である。

最高売り上げの年はバブル期の昭和62年で、
9億円近い売上高であった。

「カッパピア」は平成に入ると凋落の一途をたどった

バブルがはじけ、
昭和の勢いも過去のものと誰もが実感するようになった。

平成初頭に 安価な公営プールが高崎市内にオープンしたことや、
「カッパピア」の施設の老朽化が目立つようになり、
年々客足は遠のいていった。

来客数が年間30万人台に落ち込んだ平成6年度以降は、
転がり落ちるように来客数が激減した。

平成10年度にはついに年間来客数が8万5000人という
最低入場者数を記録した。

平成11年度から入園料を半額にするという緊急措置がとられ、
人気アニメの立体映画を上映するなどして対策がとられ、
入場者数を微増させた。

だが、この時代遅れレジャーランドは、
毎年5000万円を超す累積赤字を解消する力はすでになかった。
平成15年11月30日をもって
42年間にわたって高崎市民に親しまれてきた
「カッパピア」は消滅した。

倒産後、廃墟と化したカッパピア

閉園後は、平成16年2月に運営会社が前橋地裁から
負債総額10億1200万円で破産宣告を受け、
設備や敷地の売却が検討された。
しかし、どこも買い手がつかず放置された
「カッパピア」は廃墟と化した。

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画像の出典元:カズマ博士の廃墟探訪 →【閲覧注意】ショッキング画像多数

遊園地の廃墟ほどさびしく無残な光景はない。

昔来園した客の「楽しかった思い出」を
踏みにじるものである。

「カッパピア」はなんと20年間にもわたって
廃墟をさらしていた。

この時期は、くしくも「日本の失われた20年」 と一致する。

見るに見かねた高崎市が土地、建物を買い取り、
施設の撤去工事が行われた。

「カッパピア」の反省のもと
平成22年から緑の保全と活用を図り、
子どもからお年寄りまで多くの市民が交流し、
憩える公園として、整備が進められた。

土地の一部は、エントランス広場として、
また、世界的に有名な木製遊具メーカー、
ケルナースティック社が自社の遊具を設置し、
「ケルナー広場」となっている。

「カッパピア」の全盛期を知る
60代くらいの高崎市民の男性は、
「あんな“はりぼて”の昭和的レジャーランドなんて
もうこりごりだ、
なんであんなものが楽しかったのかなー」
と語りながら
遠くを眺めるような目をしていた。

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